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読んだら、ちょっと生きやすくなるかもしれない日記。

承認欲求モンスター。

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「深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いているのだ。」

by フリードリヒ・ニーチェ

 

 

ニーチェの言葉が好きすぎてたまらない。

 

 別に哲学好きの気取った男を演じてるわけではない。すげえ昔の言葉なのに、現代に通じてるというこの普遍めいた感じが好きなのだ。

 

 まあ好きっつってもギャルには全然劣るレベルの好き。

 

 もう何ならただただ"深淵"って言葉が厨二心をくすぐりすぎてヤバイ。

 

 地下鉄のプラットフォームのトンネルを覗きながら「これが"深淵"...」とか漢(オトコ)なら人生で一度は言ってみたいセリフにまあまあ上位食い込むでしょ。

 

この言葉は、日本の諺で言うところの「ミイラ取りがミイラになる」という意味である。

 

例えば、アンチに対する批判をしているうちに、側から見れば、彼らもアンチの一部として括られてしまうことはよくSNS上で散見される。

 

 SNS上で多く見られるものは、こういったミイラ取りがミイラになってしまうような深淵を覗く行為だけとは限らない。

 

 ということで、本日は、SNS界隈でよく議論にあがる「承認欲求」についてちょっと書きたくなったので、修論が今すっげえアレだけど、このアウトプット欲にはちょっと勝てねえ。

 

 昨今のSNSの台頭により、人々が気軽に自己主張しやすいフィールドを手に入れたことで、それに付随して「承認欲求」というものが社会との関わり方を決定づける一つの尺度になってきたように思う。

 

 心理学者のマズロー自己実現理論によれば、もともと人間の欲求は階層的に分かれていて、一番下から、生理の欲求、安全の欲求、社会欲求と愛の欲求、承認欲求、自己実現の欲求の順に階層的に並ぶと論じている。

 

 つまり、「承認欲求」という第四段階の欲求を抱けること自体がまず、社会的コミュニティに属している状態にあると言ってよく、イカ臭い男子の性欲盛り盛りメンズもInstagramだと急に惚気がちになるギャルもみんなある意味、相対的に次元の高い、贅沢な悩みを抱えてるといっていい。

 

TwitterInstagramFacebookをはじめとしたSNSにおいて、社会欲求が完全に可視化されてきたが故に、三段階目の社会欲求で悩む母数はひと昔に比べて少なくなったのではないだろうか。

 

例えば、Twitterであれば、人々はサークル、会社などで知り合った人たちとフォローフォロワーの関係となり、リプの飛ばし合い、さらには無尽蔵に注げる愛の象徴である"いいね"のばら撒きにより、現実・仮想関係なく社会との繋がりが可視化できる時代が到来してきたように思う。

 

ひと昔前までは単なる概念として鎮座しておられた目に見えない「社会性」というものが、如実に視覚情報として実感できる時代になってしまったからこそ、社会欲求と愛の欲求が容易く満たされてしまったのだ。

 

ネットがない時代であれば、同じ空間を共有してきたコミュニティのメンバー散り散りりになってしまった後、そのコミュニティは過去の想い出として彼らの記憶の中、古いアルバムの中でしか存在し得なかったはずだ。古いアルバムの中に隠れて想い出がいっぱい。

 

しかし、数年会ってない友達とですら、今もなお"繋がっている"と実感できるのは、現実に確かに存在していたコミュニティがネットという仮想空間に引越しをしただけに過ぎず、仮想空間に引越ししたコミュニティの数だけ社会的に繋っているっつー意識をより強固にしている。

 

話を戻して、欲求の段階が一つ上がり、四段階目の「承認欲求」で悩みだしたのは、皮肉にも現代が生み出した一つの現代病と言えるのかもしれない。

 

 さて、Twitterに数年駐在してきて、「承認欲求」というものを数年観察してきた体感としては承認欲求の捉え方として、2つの政党に分かれてるように思う。

 

 「承認欲求を抱いている自分ほんと無理、こんな欲求なくなっちゃえ!」をマニフェストとして掲げる承認欲求を駆逐せよ党

 

 「承認欲求って別に抱いていいじゃん、自己成長に繋がるじゃんか!」をマニフェストとして掲げる、自己成長クッサ党

 

往々にして、自己肯定感低めの人が承認欲求が高く、自己肯定感強めの人は承認欲求が低めという相関性を常々感じている。

 

 そもそも「承認欲求」には、自分の理想像に追いつくための「こだわり」の欲求である「自己承認欲求」と自分のことを他人に認めてほしいと願う「他者承認欲求」の2つが存在する。

 

ここでいう怪物として肥大化しやすいものとして比喩して用いるタイトルの承認欲求は、後者の「他者承認欲求」の方である。

 

つまり、他者承認欲求が高いことによるリスクは、自分の存在定義・自己定義を他人の中に見出してしまうことにあると言える。

 

 具体的には、自分で現実的な自己評価を下していて、その理想までの足りない不足分を他者承認によって埋め合わせを行おうとしている場合だ。

 

女の子は明日花キララくらいしか知らないような物理学科の理系メンズにも伝わるように書くと、評価と理想のギャップ分、つまり承認欲求幅で単振動しようとしている状態である。

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他者承認欲求が悪戯するのは、この自己評価が理想に届いてない場合だけに限らない。

めでたく他者承認欲求が満たされ、他人から認められだしたとする。仮に自己評価以上の評価を他人から与えられてしまった場合、おそらく、次にこの人は現実と他人評価とのギャップ分で悩み出すわけだ。贅沢な悩みなこった。

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つまり、理想状態に達していないという不足のときだけでなく、他者評価が過剰になって、理想状態を上回っても困る。

 

 自分が満足する自己評価より他人の評価が下回ったら、承認欲求で埋め合わせをしようと悩み、理想とする自己評価より他人の評価が上回っちゃうと、この現実との乖離幅で悩み出す。

 

 承認欲求という振れ幅が大きければ大きいほど、欲求力も比例して大きくなり、情緒も力学的にも不安定になり、エネルギー散逸も甚だしく、精神が摩耗するというシナリオだ。

 

 承認欲求低めの人が自分が満足する評価に達するためには、結局、自己肯定という初期状態そのものをあげるか、承認欲求という目標までの差分エネルギーを外部に依存して増大させる方法しか存在しない。

 

 裏を返せば、極論、自己肯定感の強い人は既に理想状態の自己満足評価に達しているが故に、承認すら必要ないという境地が存在することがわかるだろう。

 

 彼らにとっては、他人からの評価なんていわば読むかどうかすらもわからないアンケート用紙に近い存在ではないだろうか。

 

 ただ、どれだけ自己肯定力が高くても、やはり承認欲求分の振れ幅で単振動してしまう日常を生きているのが我々一般ピーポーであり、みんなみんな日々、単振動で忙しいのだ。

 

 きっと電車待ちをしている谷間が見えてる巨乳の朝帰りのギャルも昨晩、彼氏との単振動on the bedで忙しかったに違いないし、女の子は明日花キララぐらいしか知らないような物理学科の理系メンズも別の種類の単振動、セルフセッションで忙しかったに違いない。

 

 冒頭のニーチェの言葉の前には、次の言葉がぶら下がっている。

 

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。

 

承認欲求という怪物を語る過程で、こんな長文を書いちゃう自分は既に承認欲求の怪物と化しているのかもしれない。

 スマホ画面上で親指を踊らせつつ、乗り込んだ電車は今日も"深淵"に向かって進んでいく。

 僕もニーチェみたいな後世に残る言葉残してえ。

 

「ギャルの谷間を覗くとき、ギャルはInstagramを覗いているのだ。」

by shinoD 

 

最強の生態系について考えてみた。

 

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最強の生態系。

当方25歳。此の期に及んで、もうすぐ齢を+1更新しようとしている成長市場の老舗ベンチャー

 

そんな自分ですら、二十歳前後の新規の女性と仲良くなりたくなる新規市場の開拓、つまりブルーオーシャンという大海原に舵を切りたくなるフェーズが定期的に訪れる。

 

そんな人のために用意された社会のサービスエリアがキャバクラだと思うわけだが、新規開拓のそれを目的として、キャバクラに頼り、会話ごときで金銭的なやりとりが発生するのは、それはある種の"敗北"だと考える。

 

キャバ嬢は自分のことをカモとして見ている可能性が高いし、新規客として連れてきた友人を見て、「お、カモがネギを背負ってきた。」って思われてそうで個人的にイヤ。

百歩譲って、そこで留まれば全然いい。

 

もっと俯瞰すれば、冴えない男が貢いだ金が、"キャバ嬢"という物流を経由して、髪の毛をジェルで固めた濡れたヘアーの男が持つクラッチバッグの中の財布に流れ込む。

 

そんなわかりきった資金流通経路に金を流し込むことは、ブサメン税の支払いを自己申請してるみたいで、すごく嫌なのだ。

 

これ以上、ブサメン大名の経済力を弱体化させるのはやめて欲しいし、形は違えど、キャバクラは平成の参勤交代なのだ。

 

自分のブサメン性には目を瞑り、虚像でもいいから自分のイケメン性に希望を託しながら生きてるのが、俺たち男なんじゃないのか。

 

何が言いたいかって、こんな懐疑心を持ったまま女の子と話したくない。

人工的な出会いにトキめかないし、もっと自然に出会いたい。

 

本当は誰しもTinderなんて使わなくていい平和な世界を望んでるはずなのだ。

 

今、自分が持っている下心というのは、渋谷のスクランブル交差点に蔓延ってる"下心"ではなく、クラス替えの登校初日に持つ女の子と仲良くなりたいというただただ可愛い"下心"なのだ。

 

信じて欲しい。もっとこうナオトインティライミの歌詞のような爽やかな感情でしかないのに。

 

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マクドナルドの向かいのテーブルに同年代の女性がいたとき、「この子が登校初日同じクラスだとわかったら、どうやって仲良くなるだろうか?」という脳内シュミレーションをよくする。

 

何かしら同じ共同体を有する間柄なら確実に仲良くなれるようなアプローチを試みるはずだが、真向かいの女性との共同体は、現時点このマクドナルドのみ。

 

このシチュエーションに関しては、もうお手上げするしかないのである。

 

『この子と仲良くなることは、この人生でもう二度とない。』

 

この残酷な現実が僕を絶望の淵に追いやる。

 

そこである疑問がふと沸いた。

 

「下心があると思われずに、新規の女友達を増やす方法」って存在し得るのか?と。

もし自分が竹内涼真だったら、話は別。もはや子音はいらないし、母音だけあれば十分である。

 

一応確認しとくと、僕は竹内涼真ではないし、共通点はヒト科のみ。

 

別にイケメンでもないし、話しかけることが仮にできたにせよ、話しかけた瞬間に振り切れる女性の警戒値を下げることは一般ピーポーには至難の技なのだ。

 

はて、この"警戒心"の発生原因って何だろう?って考えたところ、ある結論に達したので、筆をとった次第である。

 

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さて、ここからが本題だ。

 

ある仮説を提唱する。

 

「初期段階における"ちんこ"の存在って、まあまあ邪魔じゃね。」

 

どれほど思考実験を繰り返しても、最終的にここの障壁(ポテンシャル)にぶつかる。

 

女性側の警戒心を最小化にすることはできても、ゼロにすることはできない。

 

ゼロにできないのは完全にちんこのせいであると。

 

ちんこ分のポテンシャルエネルギーのせいで確実に女性の警戒心をゼロにできないし、こいつのせいで、最終的にちんこの斥力で跳ね返されてしまうのだ。

 

女友達として仲良くなって、向こうも自分を完全に"男友達"として見てくるわけだが、男側が徐々にその子を恋愛対象にしか見られなくなって、意を決して告白してみたら

 

「そんなつもりはなかった。」

 

いつの時代も、我慢比べ、根比べで敗北を喫するのは男である。

 

これはあらゆる恋愛の現場で散見されるし、モテなさる女性はこのような経験が人生スケールとして、累積されている場合が多く、男友達と言えども、根っこのところでは警戒していることが往々にしてあると言える。

 

今からオブラートに包むために、男性のモノを"鍵"、女性のモノを"鍵穴"として比喩を導入する。

 

究極の理想論でいくと、『女性が鍵を渡す制度』があれば最強だと思う。

つまり、女性がちんこを渡すのだ。

 

比喩の意味をぶっ壊してしまったが、解説をすると、鍵が男性に元々なく、女性が鍵と鍵穴を1セット持つという考え方だ。

 

このアタッチメント方式を生態系に応用できれば、最強ではないかと閃いた。

 

遊び盛りの女性は合鍵を作って、複数人の男性に渡せばいいと思うし、男性が何股かけているかは殿方のキーホルダーみればわかるわけだ。

 

===

「どうしたの、さっきからその鍵ばっかり眺めて。」

 

「忘れられなくってさ。」

 

「返さなかったんだ。鍵。」

 

「いや、返したよ。別れ際に、合鍵作っちゃってさ。」

 

「サイテー。ねえ、あのさ。私の鍵、渡すからさ。その鍵もう捨ててくんない?」

===

もし、このシステムが実装されれば、決定権はすべて女性に委ねられるわけで、"下心"という概念自体が薄まり、女性は受け入れ母数を確率論的に拡げようと考えるのが自然な流れであり、男側も男友達として見境なく立候補しやすい社会的生態系が構築される。

 

浮気をすれば鍵屋が儲かる。

 

ただそれだけ。

 

「最終的に審査するのはこっちだから、とりあえずエントリーヨロシク。」という女性優位の社会的生態系。それに甘んじてひたすら、エントリーを繰り返す男性社会。

 

何がいいたいかって、「ちんこ」の存在ってまあまあ邪魔やんけという前提から、導き出された理想論を先ほどの現実問題に落とし込むとどうなるか。

 

===

マクドナルドの向かい側の女性を女友達にする方法」の最適解。

 

まず警戒心を取り払うことが短期的ゴールとみなして、準備段階として、ちんこを切除することが必要条件。

 

去勢した上で、向かい側の彼女に向かって、チラッと下半身を見せつけ、下心自体が物理的に存在し得ないことを示した上で、

 

「友達になってくれませんか?」

 

理論的には、最強すぎない?

 

そんなことを思いながら、せめてものダイイングメッセージとして、向かいの彼女に向かって、Lサイズのポテトを頬張りながら、席を立つ。

 

あーあ、このビッグマックをシェイクしてくれねえかな。

 

渋谷のスクランブル交差点最寄りのマクドナルドより愛を込めて。