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読んだら、ちょっと生きやすくなるかもしれない日記。

【関ジャム×ミスチル】Sign / Mr.Children

どうも、shinoDです。

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【歌詞解釈】Sign / Mr.Children

関ジャムの「ミスチル論」を見て、テンションが上がって、眠れなくなってしまった、午前四時。

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関ジャムの「ミスチル論」っていうのを見つけたから、興味本位で見てみたら面白すぎて夜更かししてしまったし、「終わりなき旅の9回転調は人生の紆余曲折を表現している」がテロップで出てきて、自分がソコに座ってたら満を持して言いたいと思ってたヤツ~って悶えすぎて眠れない。

 

え、何それ。

僕もやりたい。

っつーわけで、僕の大好きすぎるMr.Childrenの「Sign」で、一人関ジャム遊びを敢行することにした。

 

【一人関ジャム Sign / Mr.Children

届いてくれるといいな
君の分かんないところで 僕も今奏でてるよ
育たないで萎れてた新芽みたいな音符(おもい)を
二つ重ねて鳴らすハーモニー

 

君の分かんないところで、僕が今奏でているというシーン。

 

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個人的に引っかかったのが「僕も」の「も」

「僕今奏でてるよ」って言ってるけど、投げかけている相手はまるで既にもう奏でちゃってるかのような表現じゃないですか。

「も」とか付けちゃうと、「奏でる」のはマジョリティの当たり前の行為であるかのような言い回しになっちゃう。

いや、みんながみんなアーティストじゃないから、みたいな。

この「奏でる」行為って音楽をしている人からしたら普通の行為でも、世間的には特殊な行為だと思うし、そこで敢えて、「奏でる」を使うのは、何かしらの意味があるのではないかと考えた。

 

つまり、「奏でる」というのは、楽器を演奏したり歌ったりするといったような、音楽的な「奏でる」ではなく、普段のコミュニケーションの手段の比喩として「奏でる」を使ってるのではないかと思ったわけ。

 

そして、会話の比喩である「奏でる」と実際にこの曲を演奏している「奏でる」が掛かってるわけですな。

 

「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返して僕ら 人恋しさを積み木みたいに乗せてゆく

 

  1. 音符(おもい)を二つ重ねる
  2. 「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返す
  3. 人恋しさを積み木みたいに乗せていく

 

①~③はほぼ同じことを重層的に繰り返してるように聴こえるんすよね。

二つの音符(おもい)とは、「自分」の思いと「相手」の思いのことかもしれないし、「ありがとう」と「ごめんね」という二つの想いかもしれない。

こういった、「ありがとう」って言ったり、「ごめんね」って言ったり、日常でやりとりされる会話、もしくは、相手がいない時でさえ募らせてしまう人恋しさって別に特殊なものではないし、むしろ普遍的なものじゃないですか。

この普遍的な行為を総称して『奏でる』という一見特殊めいた比喩で置き換えるのは、アーティストならではといったところ。

確かに、アーティストにとってみれば、日常の会話ですらも広義の「奏でる」かもしれないし、「僕も奏でてるよ、(もちろん君も奏でてるけどね)」ってな感じで、自然と補えちゃう。

この歌詞の世界では、人は皆、何かしらを奏でながら生きてるわけですな。

 

 

個人的に「積み木みたいに乗せる」と言う表現が好きすぎて、毎回窒息しそうになる件について。

 

積み木は乗せすぎるとバランスが崩れちゃうし、人恋しさと言う積み木は毎回毎回同じ形ではない。日常の中には、バランスの取れた余裕のある人恋しさの時もあれば、歪(いびつ)で不安定な人恋しさもある。

 

かといって、人恋しさをうまく処理できずに、自分の中で溜め込みすぎちゃうと、すぐに崩れちゃうサムシング。

 

そういった意味で、人恋しさを「積み木」と表現しているミスチルは天才と言わず、何と呼べばいいんですか、先生。

 

ありふれた時間が愛しく思えたら
それは“愛の仕業”と 小さく笑った
君が見せる仕草 僕に向けられてるサイン
もう 何ひとつ見落とさない
そんなことを考えている

 

もうキュンキュンしませんか、ココ。

これぞ愛だ。

 

完全にさっき一人で奏でていたシーンから変わって、いつの間にか、二人の世界になってるんです。

 

このシーン、さっきの新芽みたいな二つの思いがハモってるとこじゃん。

 

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それにしても、「なんでもない時間ですら愛しく思えたら、それは愛の仕業。」っつーフレーズすげえ。

 

「愛」をいたずら好きな子供のように擬人化させてるフレーズ。

 

何でもないのに、愛しいって思わせちゃう このいたずらっ子はどんな魔法使ってんの?っつー「不可思議さ」も表現されちゃってる。

 

「愛」って自分の中に閉じ込めておける言葉かと思いきや、いたずら好きな子供のように勝手に動くし、自分ではコントロールできない、自分の意識の"管轄外"の言葉ではないかとすら思えちゃう。

 

この「愛は自分の管轄外」説を逆手に取れば、恥ずかしさや照れ、嫉妬といった露呈しちゃうのが憚られる感情ですら、すべて「愛」のせいにできちゃう。

 

だって、愛の仕業の「仕業」の責任放棄感すごいじゃんか。

 

いやー、何なら「愛の仕業」って二人のお決まりの鉄板フレーズであってほしい。

 

男「もうすぐ終電じゃない?」

女「えー、けど、帰りたくない。」

男「子供かよ。」

女「うるさいな。ウチらさ、公園デートでも全然楽しめちゃう。何でだろうね?」

男「確かに。おっと?これは愛の仕業かな?」

女「今日愛の仕業何回言うん、愛の仕業のせいにしすぎじゃない?ウチら。」

 

つって。

 

たまに無頓着な言葉で汚し合って
互いの未熟さに嫌気がさす
でもいつかは裸になり甘い体温に触れて
優しさを見せつけ合う

 

二人の日常は楽しいことばかりではないと思わせるシーンの描写。

精神の幼さが露呈するのも親密度が表れてる証拠だと思うし、親密さを表すのに、ネガティブなワードで攻めてくるのは、ミスチルは日本語の職人なんですね、きっと。

ほんで、こっからちょっとベッドシーンに入りまーっす。

エロい描写になりまーっす、っと。

 

似てるけどどこか違う だけど同じ匂い
身体でも心でもなく愛している

 

「身体でも心でもなく愛している」という表現ってスゴイ。

 

「じゃあどこを愛してるの?」ってメンヘラだったら絶対突っ込んでくる表現。

 

そうじゃねえんだ、お嬢ちゃん。

 

「愛している」という言葉そのものが、目的語を明確に指せるものではないことがわかるし、愛していた対象が段々ぼやけて、曖昧になっていけばいくほど、逆に「愛している」という言葉の占める割合が広がる。

 

つまり、愛してる「対象」がぼやければ、愛してる「行為」が鮮明化するという言葉のパラドックスを感じざるを得ない。

 

「愛する」と言う言葉は他動詞のように見えて、実は自動詞なのではないかとさえ思っちゃうよね。

 

他人ありきで動いていた言葉がいつのまにか自分の中で自我を持って動き始める、そんな言葉が「愛してる」だし、何気ない時間をも愛しくさせちゃう特殊能力まで持ってる。そのスキルによって魔法をかけられてしまった感情、それをここでは愛の仕業と呼ぶのでしょう。

 

僅かだって明かりが心に灯るなら
大切にしなきゃ と僕らは誓った
めぐり逢った すべてのものから送られるサイン
もう 何ひとつ見逃さない そうやって暮らしてゆこう

 

視点が一気に広がるんです、ココで。

 

二人の世界から、「めぐり逢ったすべてのもの」という歌詞で、一気に俯瞰(引き)のスケールに変わるんです。

 

こんな感じじゃ。ドーン。

 

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ずーっと、二人の世界に浸っていたのに、一気にスケールの大きい話になる。

 

緑道の木漏れ日が君に当たって揺れる
時間の美しさと残酷さを知る

 

緑道の木漏れ日、描写的にはここの歌詞が一番好きです。

ちなみに「木漏れ日」って日本語にしかない表現らしく、ここの歌詞が頭に浮かぶ日本人で良かった。

 

そして、Signの中で唯一の強めなネガティブな表現である、この「残酷さ」について。

それは時の移ろいによる外見の老化はもちろんのこと、互いの価値観の擦り合わせの段階で、相容れなかった価値観、または一緒にいなかったら決して見ることができなかったであろうあらゆるものをひっくるめた「時の残酷さ」

 

一方で、今まで一緒にいた時間の中でやりとりされてきた、人恋しさや想いが累積された内面としての「時の美しさ」があるわけです。

 

「残酷さ」と「美しさ」は共存し内包している「時間」の概念がこれまたエグい。

 

さらに、スケールの話をすると、先ほど広がった空間の次元に「時間(とき)」という表現によって、このシーンに、さらに時間の概念が付加するわけです。

 

はい、こんな感じ。

 

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つまり、場所や人という「共時的なモノ」から送られるサインに留まらず、時間という通時的な概念が加わることで、三次元から四次元(三次元+時間)に拡張されたスケールの大きい歌詞になっちゃうの。

え、スゴくない?

 

残された時間が僕らにはあるから 大切にしなきゃと 小さく笑った

 

さらに、この場所と時間のダイナミクスさで一気に世界が広がって発散していく曲になるかと思いきや、一気に「僕ら」というフレーズで、今の「二人の日常」という寄りで世界観を収束させちゃうわけ。

 

この「二人だけしかいない僕ら」という共時的なモノ、すなわち【空間的現在】と「残された時間」という通時的なモノ、すなわち【時間的未来】が「人生」という箱にスッポリ収まる、とてもシンプルな構図になっちゃった。

 

 

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以上を踏まえて、二番の「僕ら」は一番の「僕ら」よりも二人の世界の輪郭の太さを感じませんか。

 

太いからといって、それは盲目的で排他的な恋愛ではなく、一旦視野を拡大させて、再び焦点を合わせ直したことで、目の前にいる人に対して、「特別感」を付与させた輪郭。

さて、ドンドン行くよ。

 

君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン もう何ひとつ見落とさない

 

抽象的な言葉として書かれていた『サイン』が「君が見せる仕草」と初めて具体的なモノに落とし込まれた種明かしシーン。

 

1番の歌詞は、もう何ひとつ見逃さないであるのに対し、2番の歌詞は、もう何ひとつ見落とさないに歌詞が変わってる。

 

見逃さないと見落とさないは、見落とさないの方がスゴく神経尖らせてる感じしない?

「見逃さない」というのは、認識はしていたが、逃してしまうという意味で、サインの受信時に意識しているのは「空間」のみ。

 

一方、「見落とさない」という言葉は、認識どころか、サインすらまだ出ていないかもしれない。

 

サインの受信時に意識されるのは、「空間」だけじゃなくて、常に気を張って待ってる「時間」も込み込みでコミットしてる。

 

さっきの四次元の話と一緒で、見逃すよりも見落とすの方が次元的に器が大きいわけだ。

 

そして、過去を振り返れば、僕を強くさせていたはずのサイン(仕草)を今までだいぶ見落としていたっつー反省の念すらも感じさせる言葉の住み分け上手すぎか、おい。

 

そうやって暮らしてゆこう
そんなことを考えている

 

過去を振り返っていた主人公が、踵を返し、未来に思いを馳せる最後のシーン。 

時間、空間を縦横無尽に颯爽と想いが駆け巡るSign

最高。

 

今から会社ですか?

もう今日は行かなくていいっすか。そんなことを考えている。