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読んだら、ちょっと生きやすくなるかもしれない日記。

メンヘラ呼ばわり。

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どうも、shinoDです〜。

 

先日、shinoDお悩み相談室にこんなお悩みが届きました。

 

私はメンヘラであると、自ら名乗っていないのにも関わらず、人から決めつけられることに抵抗感があります。

少しでも病んだツイートやストーリーをしようものなら、メンヘラかよ~の言葉がまた降ってくるのではないかと思い、込み上げる様々な感情を自分の中に押し戻すほかありません。

しんどい。

 

メンヘラ呼ばわり

うん、なるほどね。

 

メンヘラ」という言葉って、実際めちゃくちゃ広くて、「エモい」とか「物体」と同じくらい意味の幅が広い言葉だと思います。

 

どういうことかといいますと、ゴマ塩くらい小さいものでも「物体」と言いますし、地球くらい大きいものでも、スケールにかかわらず同じように「物体」と呼びます。

 

SNS上で散見されるような病みツイートをする人に対して「メンヘラ」と呼ぶ行為や文化についてですが、どうやら、病んだツイートをする行為自体を内容の程度にかかわらず、まとめて「メンヘラ」って呼ぶ、新しい動詞化した言葉として存在している気がしています。

 

すなわち、この動詞化した「メンヘラ」を、自分の中で咀嚼していく過程で、本当に『精神ズタボロの人』として捉えてしまうからしんどいんだと思います。

 

おそらく、自分の辞書の中で定義されている「メンヘラ」ほどは弱っていないという一種の矜持、プライドがあるのではないでしょうか。

 

彼らが揶揄するような「メンヘラ」はファンタジーでポップでキャラ立てされたモノであって、そもそも、そういった言葉は自分の中に輸入すべき言葉ではないと思うんですよね。

 

さらに、付け加えると、言葉の幅を一気に広げて、何にでも適用させちゃう誇張表現は男子がよくやる常套手段だと思います。

 

そういう意味で、病みツイートをする人、ストーリーに病み投稿をする人をそのまま的確に表現している名詞が、今この世の辞書に存在していない状況と相まって、「メンヘラ」という言葉に仮住まいをしているだけだと思うのです。

 

つまり、そこに関しては、軽く聞き流せばいいと思います。

 

というか、そもそも同じ辞書を共有できていない人からどう形容されて思われようが痛くないと思いませんか。

 

ちょっと痒いとは思いますが。

 

逆に、同じ辞書を共有されている人から指摘される言葉にこそ人は傷つくと思うのです。

 

さて、続きまして、「こみ上げる様々な感情を自分の中に押し戻すほかありません」に関してですが、人に発信する行為には、必ずそういう印象が少なからず抱かれてしまうリスクが存在します。

 

そのリスクを背負ってでも、発信するメリットが上回れば発信すればいいと思いますし、リスクが大きすぎると思えば、確かに自分の中に押し戻すという行為が消去法的に必要かと思われます。

 

ということで、今、その押し戻すしんどさを抱えているのでしょう。

 

じゃあ、人に「メンヘラ」って思われたくないから「自分の中に押し戻す」という方法をココで採ったとしましょう。

 

以下、そういった感情の飼いならし方について書きます。

 

自分の中に押し戻された感情の飼いならし方について

そういったこみ上げる様々な感情の処理は、「諌める脳」VS「暴れる心」といった具合に、誰しもがいつか自分自身と1対1で向き合わなければならないものだと考えています。

 

場合によっては、人に相談するのもアリだと思いますが、究極的な相談相手って、最終的に自分自身ただ一人になるんじゃないかなって個人的に思います。

何歳になるかは人によってさまざまだと思いますが。

 

きっと、こみ上げる様々な感情が溢れ出ているときって、心の中で「交通渋滞」を起こしてて、交通整理する人が不足している状態だと思います。

 

心の渋滞を緩和させるためにSNSや友人に吐き出して、彼らをバイパス代わりに交通緩和させるのも確かに1つの手かと思います。

 

しかし、それって根本的な解決にはなってない気がするのです。例えば、「クサいものには蓋をしめろ」と同じ原理で、蓋をしめて、一時的に紛らわせているだけで、実際のニオイの元は絶っていないように。

 

アメリカの諺に

 

Give a man a fish and you feed him for a day, teach him how to fish and you feed him for a lifetime.

 

中国の老子の言葉に

授人以魚 不如授人以漁

というものがあります。

 

どちらも、魚をあげちゃえば、1日は食べていけるけど、魚の釣り方を教えたらその人は一生食べていけるという意味です。

 

今の事例に当てはめるならば、友人から同情と共感によって支えられて慰められることは、たった1日の気持ちの緩和でしかなく、また同じような壁にぶち当たるたびに、同じ状況に陥るたびに、毎回助けを乞うのでしょうかという話です。

 

さらに問題なのは、こういった言葉の交通渋滞は人生スケールにおいて単発的なものではなく、頻発してしまうという多発的な事象であるがゆえに、悩みに対して、"魚の釣り方"を身につけるのが実は一番手っ取り早い気がするのです。

 

どこにも吐き出す場所がないという時期って、これから先、人生のどこかできっと現れると思います。親も先に死んでしまうでしょうし、周りの友人は結婚し家庭を築き、子供のことで精一杯。

 

今まで通りに友人の愚痴は聞いてられなくて、もしかしたら、いま以上に吐き出し口がない日常って今後の人生で数え切れないくらい無限に存在すると思います。

 

SNSに依存できる時代なので、リアルの友人すらも見ていないアカウント作って、そこに絶えず吐き出していくスタイルも使い方としては有効だと思います。

 

ということで、ここで、自分からの提案ですが、そういう感情が溢れ出たときに、どう考えたらしんどい思いをしなくなったかといった「経験知」と「経験値」を自分の中で累積していくのが将来の自分を助ける近道だと考えています。

 

その自分を助けた言葉、行動を【復活の呪文】としましょうか。

 

そういった「復活の呪文」の体得は人生で求められるスキル上げの1つと言えるのではないでしょうか。

 

おそらく、その人の性格によって、スキルの繰り出し方はさまざまだと思います。

 

具体的には、ポジティブに捉え直すことで解決を図る発想力タイプ。他のことをして気を紛らわせて忘れさせる行動の上書きタイプ。とりあえず寝て忘れて、記憶の忘却の彼方に投げ飛ばすタイプ。悩みを構造化させて、論理を持ち出して俯瞰して解決するタイプ。

 

どうせ人間なので、溢れ出る感情は様々と言えども、ランダムな感情って意外と少ないと思いますし、悩みを細分化すれば、いずれ解決方法は組み合わせでパターン化できる気がするのです。

 

ここで、僕が予備校時代に出会った世界史の先生の授業中に言った今でも覚えている言葉を紹介します。

 

学生時代に経験しなきゃいけないのは、孤独、貧乏、読書だ。大学で友達は2人いればいい。

 

だいぶ思想強めで全同意とは言いかねますが、「諌める脳」VS「暴れる心」、「理性」VS「感性」という葛藤を繰り返す自問自答の行為と過程をここで仮に『孤独』とするならば、学生時代、誰しもが経験して然るべきものは、確かに無限思考の中で感じてしまう『孤独』なのではないかと浪人生活2年間()と学生生活6年間を終えようとしている中で考えたりしています。

 

突き放すようで悪いですが、人生って、学生が抱えるほどの孤独、しんどさ、想像をはるかに超える絶望の連続だと思います。

 

そういった人生のチュートリアルのような学生時代の『孤独』に打ち勝ってこそ、スーパーサイヤ人のような、周りの「メンヘラ」的な揶揄の声をノイズと思えるほど無敵で素敵な自分に出会えると思っています。

 

学生時代なんてまだ冒険すら始まっていないのではないでしょうか。

 

一人で歩いていけるコツなんて、靴紐の結び方ひとつな気がしているのです。

 

以上です。ありがとうございました。shinoDでした。