通勤ラッシュは.com

読んだら、ちょっと生きやすくなるかもしれない日記。

陽キャ陰キャ論争。

f:id:shinod_blog:20180814065539p:plain

 f:id:shinod_blog:20180423063017p:plain

グレイテスト・ショーマンを観てきた。

 

もうね、グレイテスト・ショーマンってすげえの。

 

めっちゃアクティブで野心的で行動派でポジティブ。

 

ただ、自分のことが大好きすぎて、突っ走ると周りが見えなくなっちゃうタイプ。

 

ホントにザ・ヨウキャって感じなの。

 

まあね、このグレイテストショーマンを見て、面白さを感じるポイントはおそらく人それぞれだと思う。

 

けど、自分的には主人公であるP.Tバーナムとそれを取り巻く人々のキャラクター性の描写が面白く感じた。もちろん、面白さはそれだけじゃない。

 

具体的に書きすぎるとネタバレになっちゃうので、グレイテスト・ショーマンを観たことない人にも伝わる話として抽象度上げて書いてみたいと思う。

 

ハイ。っつーことで、映画を観ながら考えていた「人のキャラクター性」について何か書きたくなったので、筆をもった次第っす。

 

さて、小中高の頃のクラスに想いを馳せてみれば、『社会の縮図』とはよく言ったもので、さまざまなクラスター(群)が存在していた。

 

体育に命を懸けるイケイケ系、模試の成績を生きがいとするガリ勉系、クラスの笑いを掻っ攫うお笑い系、教室の隅っこで文庫本を読み耽る文化系と、最新のゲームについて語り明かすサブカルetcといった具合だ。

 

このようにさまざまなキャラクター性を帯びた集団の塊を「クラス」といい、直感的に、このイケイケ系が「ヨウキャ」の位置にいるのは自明だろうが、なぜそれが自明なのだろう?

 

グレイテスト・ショーマンの主人公P.Tバーナムを観ながらも「ヨウキャだなあ」って感じてしまったわけだけど、この無意識に骨の髄まで染みついてしまっている、ヨウキャとインキャの「線引き」って、はて、何だろう?

 

ただ一つ言っておきたいのは、グレイテスト・ショーマンを観たからこのヨウキャ・インキャ論争を勃発させたくなったわけではなく、こういった経緯も併せて紹介したい。

 

自分の中では「ヨウキャ」という確固たる自信があるにもかかわらず「俺インキャだから~」みたいな一種のマウント、そして、インキャへの冒涜を日常の中に垣間見るのである。

 

先ほど「マウンティング」という言葉を使ったように、ヨウキャ界隈はインキャ界隈を下に見ている傾向があるように感じる。

 

彼らは、本来、フラットに捉えられるべき「キャラクター性」に対して、「ヒエラルキー」という虚構を創り出し、虚構の勾配にマウンティングをぶっかましているのだ。

そう、彼らの頭の中の構図はこうだ。 

 

スクールカースト」という言葉に表れているように、イケイケ系、キラキラ系が独裁政治を扇動し、体育祭で活躍しまくり、女、男にモテはやされ、着々と力をつけていく。

 

きっと、その場の環境における相対的なイケイケクラスターが「ヨウキャ」というポジションをブン取り、余事象的に隅に追いやられた残りの人を「インキャ」という箱にぶち込んでいるだけなように思う。

 

ただ、ここで提言しておきたいことは、そもそもヨウキャ・インキャというキャラクター性は階層的であってはならず「白」と「黒」のように並列的なものでなくてはならない。

 

白と黒、どちらが優劣があるかという話題については、結局、個人の好みに依るもので、白の方が黒より上という不毛な話は誰もしない。

 

つまり、ヨウキャ・インキャ論争の前提として、そもそもがそれらは「並列的である」ということをまず前提として共有したい。

 

しかし、ここである問題が一つ浮上する。

 

並列であるからと言って、それらを分かつ「線」というものが存在するはずだ。

 

ということで、その「線」って何ですか?っていうのが今日のお話。

 

さて、「線引き」とはいいつつも、その線によって、キャラクター性を「0」と「1」で分けてしまうようなビットのような概念ではないような気がしている。

 

どういうことかというと、キャラクター性というのは、きっと「0」と「1」を対極としたグラデーションのようなものだ。

結論言っちゃうけど、突如、勃発したヨウキャ・インキャ論争は「このグラデーションの中であなたはどこに居るんですか?」っつー問いかけで終戦を迎えることができる。

 

つまりは極端な0と1以外は誰しもがヨウキャ成分をもち、インキャ成分を持って生きている。

そう、誰しもがグレーなのだ。

 

では、0と1を分かつ、その基準は何か。

 

ここで一つの説を挙げる。それは

 

先に頭が動くか、先に身体が動くか。

 

主人公P.Tバーナムを観ながら、この人すげえ身体動くなあって思った。物理的な身体の動きもそうだけどさ。

 

きっと、ヨウキャの性格は頭より先に身体が動く。これは間違いない。

 

そして、インプットよりアウトプット重視。

 

この行動をした時に、将来自分に降りかかるリスクなどは考えずに、ひたすら行動をしてしまう。

 

行動して、行動して、行動していく中で、その都度答えを探すだけで必要なときにちょっと考えるだけ。

 

何ならその思考時間もめっちゃ短い。

 

どうせ考えるべき段階になっても先に行動をしてしまうから、ドミノ式に永遠に行動し続けるルーティーンが形成される。

 

これが仮に社会人に当てはめると、一体どんな職種なのだろう。

 

ド偏見で申し訳ないが、とりあえず脳筋体育会系。外銀、外コンのツーブロックで髪の毛をジェルで固めたイケイケサラリーマン。

 

銀座のコリドー街に繰り出しては、社員証ぶら下げながら港区女子をお持ち帰りしちゃうサラリーマンといったところか。

 

ド偏見で申し訳ない。

 

この性格がきっと社会における「プレイヤー」の位置にいるのではないだろうか。

 

一方で、インキャの性格は、身体より先に頭が動く。

 

アウトプットよりもインプット重視であり、ある行動をした時に、自分に降りかかるリスクを考えて、保守的に考えて行動してしまう。実験派より理論派で、頭でっかちになりやすい。

 

この頭でっかちタイプがいつのまにか社会における「批評家」という位置にいたりする。

 

結果的に生まれてしまった、この「プレイヤー」と「批評家」という対比の印象から、革新派と保守派に分かれてしまい、これらの人のことを直感的に「ヨウキャ」「インキャ」と呼ぶのではないのだろうか。

 

政治的な話に直せば、前者が左寄り、後者が右寄りと言ったところ。

 

今の話をまとめると、こうだ。

つまり、絶対的ヨウキャ、絶対的インキャはそもそも存在せず、すべては環境によって変化する相対的概念なのだ。

 

大学界隈でヨウキャの立ち位置にいようが、その人らがWANIMAの中に紛れたら間違いなくインキャの位置になる。だってあんなん無理よ。

 

太陽が当たる時間によって、日向になれば日陰になるところがあるように、他人のキャラクターによって影響を受けてしまう「キャラクター性」に絶対的な個性はそもそも存在しない。

 

自分がその場所を動けば、他人のキャラクター性に影響を与えてしまう。

 

逆に言えば、今の自分のポジションを務めることができるのは自分しかいない。

そう。

 

誰しもがグレイテスト・ショーマンなのだ。

 

終わり。