通勤ラッシュは.com

読んだら、ちょっと生きやすくなるかもしれない日記。

人に依存できる体質とできない体質。

どうも、shinoDっす。

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こんなお便りが届きました。

幼い頃から人に依存することができないです。

 

特定の人に依存する自分と、その人がいなくなったときが怖いのだと思います。異性の友達はたくさんいますが好きな人ができません。

 

いいなと思った人がいても無意識に心にストップをかけてしまいます。現状そこそこ楽しく過ごせているので特に不満もなく好きな人がほしいとは思わないですが、そう遠くない未来に周りの友達が結婚なんかしていくと考えると人のことを好きになれない自分は今後も独りなのかと不安を抱きます。

 人に依存できない。

「依存」と「協力」の違いについて

なるほどね。

まあ自分の意見ですが、正直、人に依存はしなくていいと思います。

 

例えば、「依存」と「協力」はそもそも違う気がします。結婚で必要なのは協力の方であって、依存の方ではないと思います。

 

そして、好きな人って無理やり作るものでもないですし、「好きな人」っていう席を先に作ってしまったから、空席状態に不安を覚えているのです。

 

気になる人ができて初めて「好きな人」という席を用意してみてはいかがでしょうか。

 

そして、誰も好きになっていない今の独りの状態がそこそこ楽しいのであれば、将来もそこそこ楽しいと思います。

 

実際っすよ。

 

自分が好き好きでたまらない人が結婚するからこそ面白くないんだと思いますし、独りでいることに恐怖心を感じているかもしれませんが、そもそも今の状態すらもよくよく考えてみたら、言ってみれば「独り」ではないでしょうか。

 

だって誰にも依存していないので。

 

よく「独り」と「一人」を混同しがちですが、周りの孤独度合いで自分の孤独度合いを測りだすと確実に拗らせます。

 

これは別に孤独に限らず、幸福度合いも同じではないでしょうか。

 

そういう意味で、周りが幸せになっていく人が増えれば増えるほど、自分が不幸せになっていくと感じるゼロサム(全体の合計がゼロになる)思考は黄色信号と言えます。

 

なぜ黄色信号かと言うと、幸福度がゼロサムと考えてしまう人は、いざ自分が幸せになったときに、周りが不幸になっていると錯覚して、罪悪感を感じてしまうからです。

 

誰しも自分のペースというものがあるので、時の流れに身を任すのが一番いいと思います。

 

最後に、楽しさについて、ちょっと何かしら書きますね。

未来の不確定性という楽しさ

 未来のことがわかんない状態が楽しさを生むと思っていますし、仮にすべて確定した未来を歩みなさいと言われたら、それはそれでそのレールから外れたくなるでしょう。

 

結末を知ってる映画、優勝者を知ってる録画番組、犯人がわかっている推理小説、結婚相手が決まっている政略結婚がつまんなく感じてしまうのはそういうことではないでしょうか。

 

つまり、今の不安要素である今後も独りかもしれないし、誰かと出会って恋愛するかもしれない人生の不確実性こそが将来の楽しさを生むと思うのです。

 

ということで、本日はココまで!

 

どうも、shinoDでした。

【第一章】自宅カフェ化計画

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はい、どうも。shinoDっす。

 

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本日は、自分の趣味でも公開しようかなって思ってます。

 

ハイ、とまあ、その趣味の本題の前に、いきなりなんですけど、自分カフェが好きなんすよ。

 

あそこは個人的に世界一休まる空間

 

けど、カフェってさ、丸眼鏡とかチェスターコートとかMacのパソコンとか、何かしらの課金アイテムないと入れないみたいなとこあんじゃん?

カフェ好きすぎるけど、東京のカフェはビジネスマンの熱気も意識の高さの位置エネルギーも込み込みでスゴくて、熱気ですぐ出ちゃうんよ。

え、だったらさ。

 

もうリビングをカフェにしちゃえばよくない??って思いまして。

 

だって、一回につき500円くらいのカフェを購入するわけじゃん。

 

1ヶ月30日通い詰めたとしたら、15000円の出費なわけじゃん。

 

15000円って言ったら、もうなかなかオシャレなテーブル買えちゃう。

 

しかも、自分には自宅を世界一休まる空間にする義務と権利があるわけだ。

っつーことで、『自宅カフェ化計画』を入居日から開始しております。

 

自宅カフェ化計画。

コンセプト決め。

まず、この部屋のコンセプトを決めなければならない。

 

イメージとしては、ダークブラウンを基調とした、白黒モダンなスタイリッシュな部屋です。

 

このイメージを頭に持ったまま、Yahooショッピングでポスターをひたすら1枚1枚見ていきました。

 

やっぱ、コンセプトを具現化するのにあたり、ポスターの立ち位置ってめちゃめちゃ重要な気してます。


しかも、自分は、形から入るタイプなので、とりあえずコンセプトを左右しそうなポスターから購入してみました。

 

結果として、自分のツボにハマったポスターがあったので、即購入。

 

こんな感じです。

 

 

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家具揃え

コンセプトが決まったら、今度は、このコンセプトに沿ったような家具を揃えるだけだ。

 

この部屋、カフェって言ってる割には、カウンターテーブルもチェアもない。

 

まずは作業台がほしいなと思い、カウンターテーブルとチェアを購入しました。

 

昨日、ネットショップで2週間以上迷った挙句、ポチッたカウンターデスクとチェアが届き、よりカフェ感が増大しました。

 

こだわりとしては、テーブルは作業台の広さとシンプルさ。

 

椅子のこだわりは

  1. 高さを自由に変えられること
  2. 背もたれがあること
  3. 回転椅子になっていること
  4. オシャレであること
  5. ダークブラウンを基調としているので、差し色として朱色系のクッション

 

これらをすべて満たしたチェアを購入しました。

 

ってことでコチラです。

 

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部屋の端っこに姿見を置いているのも、部屋が広く見えるという工夫です。

 

今、この部屋がとても過ごしやすく、テンションぶち上がり、舞い上がってます。

 

正味、めちゃめちゃ最高すぎて、今もこの椅子に座って、ブログ書いてます。

 

もうカフェに行く必要はないし、ココなら好きなBGM流して、周りの目を気にせずどれだけでもイキリ倒せるのだ。

 

ここから、色んなものをカスタマイズしていって、最高のカフェでも作ろうかと思っていますので、宜しくお願いいたします。


くだらない事だと思うかい

 

くだらなさにこそアートは宿るのだ、そう信じてる。

 

自宅カフェ化計画、まだまだ続きます。

陽キャ陰キャ論争。

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グレイテスト・ショーマンを観てきた。

 

もうね、グレイテスト・ショーマンってすげえの。

 

めっちゃアクティブで野心的で行動派でポジティブ。

 

ただ、自分のことが大好きすぎて、突っ走ると周りが見えなくなっちゃうタイプ。

 

ホントにザ・ヨウキャって感じなの。

 

まあね、このグレイテストショーマンを見て、面白さを感じるポイントはおそらく人それぞれだと思う。

 

けど、自分的には主人公であるP.Tバーナムとそれを取り巻く人々のキャラクター性の描写が面白く感じた。もちろん、面白さはそれだけじゃない。

 

具体的に書きすぎるとネタバレになっちゃうので、グレイテスト・ショーマンを観たことない人にも伝わる話として抽象度上げて書いてみたいと思う。

 

ハイ。っつーことで、映画を観ながら考えていた「人のキャラクター性」について何か書きたくなったので、筆をもった次第っす。

 

さて、小中高の頃のクラスに想いを馳せてみれば、『社会の縮図』とはよく言ったもので、さまざまなクラスター(群)が存在していた。

 

体育に命を懸けるイケイケ系、模試の成績を生きがいとするガリ勉系、クラスの笑いを掻っ攫うお笑い系、教室の隅っこで文庫本を読み耽る文化系と、最新のゲームについて語り明かすサブカルetcといった具合だ。

 

このようにさまざまなキャラクター性を帯びた集団の塊を「クラス」といい、直感的に、このイケイケ系が「ヨウキャ」の位置にいるのは自明だろうが、なぜそれが自明なのだろう?

 

グレイテスト・ショーマンの主人公P.Tバーナムを観ながらも「ヨウキャだなあ」って感じてしまったわけだけど、この無意識に骨の髄まで染みついてしまっている、ヨウキャとインキャの「線引き」って、はて、何だろう?

 

ただ一つ言っておきたいのは、グレイテスト・ショーマンを観たからこのヨウキャ・インキャ論争を勃発させたくなったわけではなく、こういった経緯も併せて紹介したい。

 

自分の中では「ヨウキャ」という確固たる自信があるにもかかわらず「俺インキャだから~」みたいな一種のマウント、そして、インキャへの冒涜を日常の中に垣間見るのである。

 

先ほど「マウンティング」という言葉を使ったように、ヨウキャ界隈はインキャ界隈を下に見ている傾向があるように感じる。

 

彼らは、本来、フラットに捉えられるべき「キャラクター性」に対して、「ヒエラルキー」という虚構を創り出し、虚構の勾配にマウンティングをぶっかましているのだ。

そう、彼らの頭の中の構図はこうだ。 

 

スクールカースト」という言葉に表れているように、イケイケ系、キラキラ系が独裁政治を扇動し、体育祭で活躍しまくり、女、男にモテはやされ、着々と力をつけていく。

 

きっと、その場の環境における相対的なイケイケクラスターが「ヨウキャ」というポジションをブン取り、余事象的に隅に追いやられた残りの人を「インキャ」という箱にぶち込んでいるだけなように思う。

 

ただ、ここで提言しておきたいことは、そもそもヨウキャ・インキャというキャラクター性は階層的であってはならず「白」と「黒」のように並列的なものでなくてはならない。

 

白と黒、どちらが優劣があるかという話題については、結局、個人の好みに依るもので、白の方が黒より上という不毛な話は誰もしない。

 

つまり、ヨウキャ・インキャ論争の前提として、そもそもがそれらは「並列的である」ということをまず前提として共有したい。

 

しかし、ここである問題が一つ浮上する。

 

並列であるからと言って、それらを分かつ「線」というものが存在するはずだ。

 

ということで、その「線」って何ですか?っていうのが今日のお話。

 

さて、「線引き」とはいいつつも、その線によって、キャラクター性を「0」と「1」で分けてしまうようなビットのような概念ではないような気がしている。

 

どういうことかというと、キャラクター性というのは、きっと「0」と「1」を対極としたグラデーションのようなものだ。

結論言っちゃうけど、突如、勃発したヨウキャ・インキャ論争は「このグラデーションの中であなたはどこに居るんですか?」っつー問いかけで終戦を迎えることができる。

 

つまりは極端な0と1以外は誰しもがヨウキャ成分をもち、インキャ成分を持って生きている。

そう、誰しもがグレーなのだ。

 

では、0と1を分かつ、その基準は何か。

 

ここで一つの説を挙げる。それは

 

先に頭が動くか、先に身体が動くか。

 

主人公P.Tバーナムを観ながら、この人すげえ身体動くなあって思った。物理的な身体の動きもそうだけどさ。

 

きっと、ヨウキャの性格は頭より先に身体が動く。これは間違いない。

 

そして、インプットよりアウトプット重視。

 

この行動をした時に、将来自分に降りかかるリスクなどは考えずに、ひたすら行動をしてしまう。

 

行動して、行動して、行動していく中で、その都度答えを探すだけで必要なときにちょっと考えるだけ。

 

何ならその思考時間もめっちゃ短い。

 

どうせ考えるべき段階になっても先に行動をしてしまうから、ドミノ式に永遠に行動し続けるルーティーンが形成される。

 

これが仮に社会人に当てはめると、一体どんな職種なのだろう。

 

ド偏見で申し訳ないが、とりあえず脳筋体育会系。外銀、外コンのツーブロックで髪の毛をジェルで固めたイケイケサラリーマン。

 

銀座のコリドー街に繰り出しては、社員証ぶら下げながら港区女子をお持ち帰りしちゃうサラリーマンといったところか。

 

ド偏見で申し訳ない。

 

この性格がきっと社会における「プレイヤー」の位置にいるのではないだろうか。

 

一方で、インキャの性格は、身体より先に頭が動く。

 

アウトプットよりもインプット重視であり、ある行動をした時に、自分に降りかかるリスクを考えて、保守的に考えて行動してしまう。実験派より理論派で、頭でっかちになりやすい。

 

この頭でっかちタイプがいつのまにか社会における「批評家」という位置にいたりする。

 

結果的に生まれてしまった、この「プレイヤー」と「批評家」という対比の印象から、革新派と保守派に分かれてしまい、これらの人のことを直感的に「ヨウキャ」「インキャ」と呼ぶのではないのだろうか。

 

政治的な話に直せば、前者が左寄り、後者が右寄りと言ったところ。

 

今の話をまとめると、こうだ。

つまり、絶対的ヨウキャ、絶対的インキャはそもそも存在せず、すべては環境によって変化する相対的概念なのだ。

 

大学界隈でヨウキャの立ち位置にいようが、その人らがWANIMAの中に紛れたら間違いなくインキャの位置になる。だってあんなん無理よ。

 

太陽が当たる時間によって、日向になれば日陰になるところがあるように、他人のキャラクターによって影響を受けてしまう「キャラクター性」に絶対的な個性はそもそも存在しない。

 

自分がその場所を動けば、他人のキャラクター性に影響を与えてしまう。

 

逆に言えば、今の自分のポジションを務めることができるのは自分しかいない。

そう。

 

誰しもがグレイテスト・ショーマンなのだ。

 

終わり。

 

【関ジャム×ミスチル】Sign / Mr.Children

どうも、shinoDです。

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【歌詞解釈】Sign / Mr.Children

関ジャムの「ミスチル論」を見て、テンションが上がって、眠れなくなってしまった、午前四時。

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関ジャムの「ミスチル論」っていうのを見つけたから、興味本位で見てみたら面白すぎて夜更かししてしまったし、「終わりなき旅の9回転調は人生の紆余曲折を表現している」がテロップで出てきて、自分がソコに座ってたら満を持して言いたいと思ってたヤツ~って悶えすぎて眠れない。

 

え、何それ。

僕もやりたい。

っつーわけで、僕の大好きすぎるMr.Childrenの「Sign」で、一人関ジャム遊びを敢行することにした。

 

【一人関ジャム Sign / Mr.Children

届いてくれるといいな
君の分かんないところで 僕も今奏でてるよ
育たないで萎れてた新芽みたいな音符(おもい)を
二つ重ねて鳴らすハーモニー

 

君の分かんないところで、僕が今奏でているというシーン。

 

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個人的に引っかかったのが「僕も」の「も」

「僕今奏でてるよ」って言ってるけど、投げかけている相手はまるで既にもう奏でちゃってるかのような表現じゃないですか。

「も」とか付けちゃうと、「奏でる」のはマジョリティの当たり前の行為であるかのような言い回しになっちゃう。

いや、みんながみんなアーティストじゃないから、みたいな。

この「奏でる」行為って音楽をしている人からしたら普通の行為でも、世間的には特殊な行為だと思うし、そこで敢えて、「奏でる」を使うのは、何かしらの意味があるのではないかと考えた。

 

つまり、「奏でる」というのは、楽器を演奏したり歌ったりするといったような、音楽的な「奏でる」ではなく、普段のコミュニケーションの手段の比喩として「奏でる」を使ってるのではないかと思ったわけ。

 

そして、会話の比喩である「奏でる」と実際にこの曲を演奏している「奏でる」が掛かってるわけですな。

 

「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返して僕ら 人恋しさを積み木みたいに乗せてゆく

 

  1. 音符(おもい)を二つ重ねる
  2. 「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返す
  3. 人恋しさを積み木みたいに乗せていく

 

①~③はほぼ同じことを重層的に繰り返してるように聴こえるんすよね。

二つの音符(おもい)とは、「自分」の思いと「相手」の思いのことかもしれないし、「ありがとう」と「ごめんね」という二つの想いかもしれない。

こういった、「ありがとう」って言ったり、「ごめんね」って言ったり、日常でやりとりされる会話、もしくは、相手がいない時でさえ募らせてしまう人恋しさって別に特殊なものではないし、むしろ普遍的なものじゃないですか。

この普遍的な行為を総称して『奏でる』という一見特殊めいた比喩で置き換えるのは、アーティストならではといったところ。

確かに、アーティストにとってみれば、日常の会話ですらも広義の「奏でる」かもしれないし、「僕も奏でてるよ、(もちろん君も奏でてるけどね)」ってな感じで、自然と補えちゃう。

この歌詞の世界では、人は皆、何かしらを奏でながら生きてるわけですな。

 

 

個人的に「積み木みたいに乗せる」と言う表現が好きすぎて、毎回窒息しそうになる件について。

 

積み木は乗せすぎるとバランスが崩れちゃうし、人恋しさと言う積み木は毎回毎回同じ形ではない。日常の中には、バランスの取れた余裕のある人恋しさの時もあれば、歪(いびつ)で不安定な人恋しさもある。

 

かといって、人恋しさをうまく処理できずに、自分の中で溜め込みすぎちゃうと、すぐに崩れちゃうサムシング。

 

そういった意味で、人恋しさを「積み木」と表現しているミスチルは天才と言わず、何と呼べばいいんですか、先生。

 

ありふれた時間が愛しく思えたら
それは“愛の仕業”と 小さく笑った
君が見せる仕草 僕に向けられてるサイン
もう 何ひとつ見落とさない
そんなことを考えている

 

もうキュンキュンしませんか、ココ。

これぞ愛だ。

 

完全にさっき一人で奏でていたシーンから変わって、いつの間にか、二人の世界になってるんです。

 

このシーン、さっきの新芽みたいな二つの思いがハモってるとこじゃん。

 

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それにしても、「なんでもない時間ですら愛しく思えたら、それは愛の仕業。」っつーフレーズすげえ。

 

「愛」をいたずら好きな子供のように擬人化させてるフレーズ。

 

何でもないのに、愛しいって思わせちゃう このいたずらっ子はどんな魔法使ってんの?っつー「不可思議さ」も表現されちゃってる。

 

「愛」って自分の中に閉じ込めておける言葉かと思いきや、いたずら好きな子供のように勝手に動くし、自分ではコントロールできない、自分の意識の"管轄外"の言葉ではないかとすら思えちゃう。

 

この「愛は自分の管轄外」説を逆手に取れば、恥ずかしさや照れ、嫉妬といった露呈しちゃうのが憚られる感情ですら、すべて「愛」のせいにできちゃう。

 

だって、愛の仕業の「仕業」の責任放棄感すごいじゃんか。

 

いやー、何なら「愛の仕業」って二人のお決まりの鉄板フレーズであってほしい。

 

男「もうすぐ終電じゃない?」

女「えー、けど、帰りたくない。」

男「子供かよ。」

女「うるさいな。ウチらさ、公園デートでも全然楽しめちゃう。何でだろうね?」

男「確かに。おっと?これは愛の仕業かな?」

女「今日愛の仕業何回言うん、愛の仕業のせいにしすぎじゃない?ウチら。」

 

つって。

 

たまに無頓着な言葉で汚し合って
互いの未熟さに嫌気がさす
でもいつかは裸になり甘い体温に触れて
優しさを見せつけ合う

 

二人の日常は楽しいことばかりではないと思わせるシーンの描写。

精神の幼さが露呈するのも親密度が表れてる証拠だと思うし、親密さを表すのに、ネガティブなワードで攻めてくるのは、ミスチルは日本語の職人なんですね、きっと。

ほんで、こっからちょっとベッドシーンに入りまーっす。

エロい描写になりまーっす、っと。

 

似てるけどどこか違う だけど同じ匂い
身体でも心でもなく愛している

 

「身体でも心でもなく愛している」という表現ってスゴイ。

 

「じゃあどこを愛してるの?」ってメンヘラだったら絶対突っ込んでくる表現。

 

そうじゃねえんだ、お嬢ちゃん。

 

「愛している」という言葉そのものが、目的語を明確に指せるものではないことがわかるし、愛していた対象が段々ぼやけて、曖昧になっていけばいくほど、逆に「愛している」という言葉の占める割合が広がる。

 

つまり、愛してる「対象」がぼやければ、愛してる「行為」が鮮明化するという言葉のパラドックスを感じざるを得ない。

 

「愛する」と言う言葉は他動詞のように見えて、実は自動詞なのではないかとさえ思っちゃうよね。

 

他人ありきで動いていた言葉がいつのまにか自分の中で自我を持って動き始める、そんな言葉が「愛してる」だし、何気ない時間をも愛しくさせちゃう特殊能力まで持ってる。そのスキルによって魔法をかけられてしまった感情、それをここでは愛の仕業と呼ぶのでしょう。

 

僅かだって明かりが心に灯るなら
大切にしなきゃ と僕らは誓った
めぐり逢った すべてのものから送られるサイン
もう 何ひとつ見逃さない そうやって暮らしてゆこう

 

視点が一気に広がるんです、ココで。

 

二人の世界から、「めぐり逢ったすべてのもの」という歌詞で、一気に俯瞰(引き)のスケールに変わるんです。

 

こんな感じじゃ。ドーン。

 

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ずーっと、二人の世界に浸っていたのに、一気にスケールの大きい話になる。

 

緑道の木漏れ日が君に当たって揺れる
時間の美しさと残酷さを知る

 

緑道の木漏れ日、描写的にはここの歌詞が一番好きです。

ちなみに「木漏れ日」って日本語にしかない表現らしく、ここの歌詞が頭に浮かぶ日本人で良かった。

 

そして、Signの中で唯一の強めなネガティブな表現である、この「残酷さ」について。

それは時の移ろいによる外見の老化はもちろんのこと、互いの価値観の擦り合わせの段階で、相容れなかった価値観、または一緒にいなかったら決して見ることができなかったであろうあらゆるものをひっくるめた「時の残酷さ」

 

一方で、今まで一緒にいた時間の中でやりとりされてきた、人恋しさや想いが累積された内面としての「時の美しさ」があるわけです。

 

「残酷さ」と「美しさ」は共存し内包している「時間」の概念がこれまたエグい。

 

さらに、スケールの話をすると、先ほど広がった空間の次元に「時間(とき)」という表現によって、このシーンに、さらに時間の概念が付加するわけです。

 

はい、こんな感じ。

 

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つまり、場所や人という「共時的なモノ」から送られるサインに留まらず、時間という通時的な概念が加わることで、三次元から四次元(三次元+時間)に拡張されたスケールの大きい歌詞になっちゃうの。

え、スゴくない?

 

残された時間が僕らにはあるから 大切にしなきゃと 小さく笑った

 

さらに、この場所と時間のダイナミクスさで一気に世界が広がって発散していく曲になるかと思いきや、一気に「僕ら」というフレーズで、今の「二人の日常」という寄りで世界観を収束させちゃうわけ。

 

この「二人だけしかいない僕ら」という共時的なモノ、すなわち【空間的現在】と「残された時間」という通時的なモノ、すなわち【時間的未来】が「人生」という箱にスッポリ収まる、とてもシンプルな構図になっちゃった。

 

 

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以上を踏まえて、二番の「僕ら」は一番の「僕ら」よりも二人の世界の輪郭の太さを感じませんか。

 

太いからといって、それは盲目的で排他的な恋愛ではなく、一旦視野を拡大させて、再び焦点を合わせ直したことで、目の前にいる人に対して、「特別感」を付与させた輪郭。

さて、ドンドン行くよ。

 

君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン もう何ひとつ見落とさない

 

抽象的な言葉として書かれていた『サイン』が「君が見せる仕草」と初めて具体的なモノに落とし込まれた種明かしシーン。

 

1番の歌詞は、もう何ひとつ見逃さないであるのに対し、2番の歌詞は、もう何ひとつ見落とさないに歌詞が変わってる。

 

見逃さないと見落とさないは、見落とさないの方がスゴく神経尖らせてる感じしない?

「見逃さない」というのは、認識はしていたが、逃してしまうという意味で、サインの受信時に意識しているのは「空間」のみ。

 

一方、「見落とさない」という言葉は、認識どころか、サインすらまだ出ていないかもしれない。

 

サインの受信時に意識されるのは、「空間」だけじゃなくて、常に気を張って待ってる「時間」も込み込みでコミットしてる。

 

さっきの四次元の話と一緒で、見逃すよりも見落とすの方が次元的に器が大きいわけだ。

 

そして、過去を振り返れば、僕を強くさせていたはずのサイン(仕草)を今までだいぶ見落としていたっつー反省の念すらも感じさせる言葉の住み分け上手すぎか、おい。

 

そうやって暮らしてゆこう
そんなことを考えている

 

過去を振り返っていた主人公が、踵を返し、未来に思いを馳せる最後のシーン。 

時間、空間を縦横無尽に颯爽と想いが駆け巡るSign

最高。

 

今から会社ですか?

もう今日は行かなくていいっすか。そんなことを考えている。

【関ジャム完全燃SHOW】アカツキの詩/スキマスイッチ

渋谷すばるさんが関ジャニ∞を脱退しましたね。
 

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いや〜。自分、関ジャムっていう音楽番組めっちゃ好きだったんですよ。
 
あの自分の好きな曲について分析していく番組。
 
「アレ、自分もやりてえっす。」
 
ってことで、本日は、自分の好きな曲スキマスイッチアカツキの詩について分析してみました。題して、

【一人関ジャム】アカツキの詩/スキマスイッチ

 

アカツキの詩って知ってます?

 

好きなメロディと好きな歌詞ってバラバラだったりするんだけど、アカツキの詩に関しては違う。

 

一番好きなメロディに一番好きな歌詞が乗っちゃったらもはや好きになるしかないやんけ。その一番好きなところは 

守ろうとした手のひらで握りつぶしてしまうよ

 ココ。 同じ手のひらでありながら、守ることもできるし、握りつぶすこともできるっつー、手のひらの諸刃の劔感。
 
「言葉は笑わせることも悲しくさせることもできる」に通ずるジレンマを感じる。

 

 「握りつぶす」っつーワードチョイスに関して言うと、現在進行形の恋愛における自分の日々の失敗を過剰に表現してるっつー説もあると思うけど、今日は別の説を提唱したい。 


まず、この歌は別れた元カノに対して歌った失恋ソングであり、握り潰してしまったそれは彼女の「抜け殻」だった説。 

 

大切にしたくて、言葉で縛ってがんじがらめ

 別れてしまった今、思い出してみると、自分は、ただただ彼女を大切にしたい一方で、言葉で縛ってがんじがらめにしてしまっていたけど、あの時既に、彼女の心は自分の手の内からスルリと抜け出してしまっていた。 

 

絡まった中には君の影も見当たらない。

 自分からしてみれば「守る」という体裁で繕って、かこつけて、言葉としてカッコよく塗り固めてるけど、実際、彼女からしてみれば、それはただの「束縛」でしかなかった。 


束縛には二種類ある。それは相手のための束縛か、自分のための束縛か。

 
ここでの束縛は彼女のための束縛というよりも、自分のための束縛。 


この意識と価値観のすれ違いの描写が上手すぎて、はい、もう、ひたすら好きです、ってなる。 


この二人の価値観のすれ違い、行き違いっぷりは、歌の随所に散りばめられているわけ。 

僕は鏡越しの自分をみていた 君がみていたのは紛れもなく、僕だったのに
からかいあってたはずなのに いつの間にか 冗談に聞こえなくなって 気づけば 君は泣き出してた
多くを欲しがったら揺らぐバランス

自分のことばっかり見ている、自分のことが大好きな自己中心的な主人公。 


頭ではわかってはいるけど、口に出す言葉にちょっとトゲがあったりして、怒らせてしまう、距離感測りベタな不器用タイプ。 

 

そもそも、「守ろう」って言う言葉から滲み出る亭主関白感といいますか。 

 

さっきも言ったように、"守ろうとした手のひら"の「守ろう」っつーのは、自分の行為を正当化するための繕った言葉に若干聞こえちゃう。 


だって、この人は彼女のことは見てないし、自分のことしか考えが及んでないもん。 
つまり、この歌は、亭主関白型の傍若無人の恋愛不器用マンが主人公として描かれてるわけだ。 


PVではロボットの巨神兵みたいなのが出てくるけど、これはきっと"不器用な象徴"として描かれてるんじゃないかって。 

 

愛情を注いでいれば、花も咲くと信じ込んでいた。

 

うん、やっぱりいわゆる『釣った魚に餌をあげない』タイプの男であり、そりゃ彼女は冷めるって。 

 

サボテンだってさ 簡単にダメにしてしまったなぁ

 

サボテンをダメにするってよっぽどじゃない?

 

サボテンの花言葉は「枯れない愛」だし、既に終わった恋愛について歌ってる根拠の一つがコレ。

 

つまりは、簡単に愛をダメにしちゃった男って読み取れる。

その彼女の冷めていく呆れてる心情描写がきっとココ。 

 

差し込んだ 月明かりは僕の前で消えていくよ

 

アカツキの詩の時系列問題

 最後に書きたいのは、この曲の時系列の話。

 まず、アカツキの詩と言うタイトルでありながら、アカツキ(暁)というワードは使われてはいない。  

あかつき【暁】1.よあけ。あけがた。夜半から夜のあけるころまで。

キーワード『夜』で、時間帯の情景描写は全部で3回出てくる。

 

順番に書くと、

  1. 夜が少し遠くなっていた
  2. 夜がひっそり座り込んでた
  3. 夜が少し動き出してたなんか  

 

これ、時系列にめっちゃ違和感あるんですよ。

 

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自分が納得する時系列に直したらこう。

 

曲通りの①⇒②⇒③じゃなくて、上図のように②⇒①⇒③ 

 

1番の歌詞

もうずいぶんたったなあ こんな時間に 寝不足になったような感じで起き上がるのもイヤになるよな夜が少し遠くなっていた

 

過去の恋愛を思い出し、深夜に悶々して、ふと外をみれば、いつのまにか暁(アカツキ)の時間になっていたという深夜に悶々と夜更かしをしてしまった長さが伺える。

 

2番の歌詞

差し込んでいた月明かりは 僕の目の前で消えていくよ夜がひっそり座り込んでいた

 

元カノとの具体的な過去の失敗シーンを鮮明に思い出してるのが、ココ。

夜が座り込むって、それは真夜中であって、それは暁の前じゃない?

だから、時系列的には、②→①な気がしてならない。

 

最後の歌詞

夜が少し動き出してた

 

そして、最後にチョロッと「夜が少し動き出してた」って一言歌ってるんだけど、え、これって、もう夜が始まってるの??

 

だとしたら、昨夜の猛省っぷりが翌日まで尾を引いてる感じがたまんなくないですか。

 

ココを繋げちゃうと、ずっと未練タラタラ感が表現できてしまうじゃんか、やめてくれ。

 

未練タラタラの無限ループが「夜が少し動き出してた」って言っちゃうことで出来上がってしまう。

 

おそらく、この男は今晩も思い出すだろうし、明日の晩も思い出すだろう。

 

過去の恋愛を思い出して、悶々と夜更かししてしまった、しがない男の未練タラタラ失恋ソング。

 

ここまで綺麗にまとまった反省文みたいな歌ある?これを踏まえた上で、もう一度聞くと、最初の『もう随分たったなあ』にとんでもねえ哀愁を感じるわけだ。

 

それは深夜から暁の時間まで「随分たったなあ」なのか、別れてから今日まで「随分たったなあ」なのか。

 

それは、スキマスイッチぞ知るって感じだけど、ここまで主人公像を考えちゃうと、別れたのは昨日今日の話じゃねえぞとさえ思ってしまう。

 

はい、アカツキの詩、最高です。

 

一人でも多く、スキマスイッチアカツキの詩のファンが増えたら、ただただ嬉しい限り。

 

 


スキマスイッチ / アカツキの詩

 

 

愛情の変換効率

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どうも、shinoDです〜。

本日もshinoDお悩み相談室にこんなお悩みが届いておりました。

 

彼氏のことが好きすぎて、彼氏よりもわたしの方が何倍も愛情表現しちゃいます。

男の人は追いたい、というしなんだか悔しいし、飽きられそうで怖いです。

自分の好きな気持ちは出し惜しみした方がいいですか?

 

愛情の変換効率

えー、さっそく始めさせていただきますが、いじわるな質問をしちゃうと、なんで「君の名は。」みたいに彼氏と入れ替わったことないのに、彼氏よりも何倍も愛情表現をしているって言えるのでしょう。

 

おそらくその何倍もっていうのは、彼氏の愛情表現の”量”と自分の愛情表現の”量”を比べているんだと思います。

 

何が言いたいかって、比べるなら、『彼氏』から受け取った愛情表現の量と『彼女』から受け取った量で比較しなければならないと思います。

 

つまり、身体が入れ替わらない限り、比較は不可能だと思いませんか。

 

全部、自分の実感ベースで自分が投げた量と受け取った量を比べちゃうと、それは自分が投げた量の方が大きくなるのがほとんどだと思います。

 

何が言いたいかと言うと、いまタイトルの通り、愛情の「変換効率」みたいな概念が抜けてると思います。

 

100投げて80伝わる人もいれば100投げて20しか伝わらない人もいるように、どうしても比較したいのであれば、その人の出せる最高の愛情表現があったとして、そのうちのどれだけ出してもらえたかという「比率」で考えられるべきだと思いません?

 

大富豪の出す1万円と大学生が出す1万円の価値には、実際、大学生の出す1万円の方に価値があるように、まず、その人の出せる最高の愛情表現の量があり、そのうちどれだけ出してくれたかという割合で考えた方がお互いの為だと思いませんか。

 

まあ1000万は大富豪じゃないと思いますが、単純に1000万、大学生の全財産を1万円とするならば、以下の計算式で「大学生の1万円の方が価値が高い」という算出です。

 

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 今、自分では100投げてるつもりでも、鈍感な彼氏なら10も伝わってないかもしれませんし、10しか出せない彼氏が頑張って8出してるのかもしれません。

 

以上の話から考えられる愛情表現の仕方の最適解は、出し惜しみなんかせずに、自分が出せる愛情は全部伝えて、彼氏が伝えようとしている愛情を全部拾う努力をすることではないでしょうか。

 

いや〜、にしても、彼氏幸せすぎるな。

 

はい、以上、shinoDでした〜。

 

「モテそうなのにね。」って言われるタイプの女子

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どうも、おはようございます。shinoDです。

先日お悩み相談室にこんなお便りが届きました。

 

異性に対する理想が高い、モテそうだがとっつきにくい、とたまに言われます。

 

理想が高くて冷め易いのは自覚済みですし、かといって自分磨きを怠っているわけでもありませんし、そう面と向かって言ってくれる友人には感謝しています。

 

ですが、そう言われる時、あまり良い気はしないんですよね。

 

恋愛経験はまだまだ少ないのでこれから色々経験していけたら良いなと思っています。とっつきにくいというイメージを払拭するにはどうすれば良いと思いますか?

 

ハイ。ということで、モテそうって言われるが、実際とっつきにくい。

いわゆるサバサバ系女子にカテゴライズされるタイプの女の子でしょうか。

 

っつーことで、本日は「モテそうなのに」って言われるタイプの女子について話していきます。

 

「モテそうなのに」って言われるタイプの女子

自分の体験談から書いていきますね。

 

例えば、自分が何年かかっても到底追いつけないような、自分より数百倍コミュ力高い友人は「俺、最近、コミュ力落ちてない?ちゃんと笑えてる?」って鏡の前でニカッって笑顔を作る練習をしていました。

 

それって別に作り笑いの練習ではなく、作り笑いって思ってほしくないがゆえの素の感情を出す練習っぽいです。

 

正直びっくりしました。こんなにコミュ力高い人はそれなりの理由があるというか、影で努力を怠っていないことを目の当たりにした瞬間でしたね。

 

天才ほど努力してるんやなって思いましたし、つまり、モテる人はなるべくしてモテてると言ったところでしょうか。

 

「モテそうだが、とっつきにくい」と言われる人は単純に笑顔の問題だと思います。

 

無表情であればあるほど人は底が見えず、怖がります。

 

自分の顔がもし嫌いだとしても、他人がこの顔を見たときに、どういう感情の顔として認識し、喜怒哀楽のうちどれにカテゴライズされるだろう?と常に客観視することがとっつきにくいイメージを払拭する最初の第一歩ではないでしょうか。

 

怒ってないのに怒ってるって思われたり、楽しんでるのに楽しんでないって勘違いされたりするのって、言うたら、その場の登場人物、誰も得していない状態なわけじゃないですか。

 

そういう意味では、自分の思い通りの顔をアウトプットできることは、自分も他人も損しない生き方に繋がるんじゃねえかって思ってます。

 

自分では正確に出しているつもりの音でさえも他人が聞いたら、音痴に聞こえたりするように、案外、自分が思っている顔よりも怖かったり、自分が思っているよりも無表情だったりしてるのではないかと思います。

 

喩えるならば、笑顔音痴と言ったところでしょうか。

 

得てして、自撮りの練習をする女子があらゆるシーンで立ち回り方が上手くなるのはそういうことだと思いますし、カメラという自分の笑顔を客観視できる最高の文明の利器があるので、いちいち斜に構えず、存分に頼ったらいいと思います。

 

ちなみに、男の子で「モテそうなのにね」って言われたら、「私はタイプじゃない。」という意味になりますので、ご注意を。

 

ハイ、 shinoDでした〜。

 

メンヘラ呼ばわり。

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どうも、shinoDです〜。

 

先日、shinoDお悩み相談室にこんなお悩みが届きました。

 

私はメンヘラであると、自ら名乗っていないのにも関わらず、人から決めつけられることに抵抗感があります。

少しでも病んだツイートやストーリーをしようものなら、メンヘラかよ~の言葉がまた降ってくるのではないかと思い、込み上げる様々な感情を自分の中に押し戻すほかありません。

しんどい。

 

メンヘラ呼ばわり

うん、なるほどね。

 

メンヘラ」という言葉って、実際めちゃくちゃ広くて、「エモい」とか「物体」と同じくらい意味の幅が広い言葉だと思います。

 

どういうことかといいますと、ゴマ塩くらい小さいものでも「物体」と言いますし、地球くらい大きいものでも、スケールにかかわらず同じように「物体」と呼びます。

 

SNS上で散見されるような病みツイートをする人に対して「メンヘラ」と呼ぶ行為や文化についてですが、どうやら、病んだツイートをする行為自体を内容の程度にかかわらず、まとめて「メンヘラ」って呼ぶ、新しい動詞化した言葉として存在している気がしています。

 

すなわち、この動詞化した「メンヘラ」を、自分の中で咀嚼していく過程で、本当に『精神ズタボロの人』として捉えてしまうからしんどいんだと思います。

 

おそらく、自分の辞書の中で定義されている「メンヘラ」ほどは弱っていないという一種の矜持、プライドがあるのではないでしょうか。

 

彼らが揶揄するような「メンヘラ」はファンタジーでポップでキャラ立てされたモノであって、そもそも、そういった言葉は自分の中に輸入すべき言葉ではないと思うんですよね。

 

さらに、付け加えると、言葉の幅を一気に広げて、何にでも適用させちゃう誇張表現は男子がよくやる常套手段だと思います。

 

そういう意味で、病みツイートをする人、ストーリーに病み投稿をする人をそのまま的確に表現している名詞が、今この世の辞書に存在していない状況と相まって、「メンヘラ」という言葉に仮住まいをしているだけだと思うのです。

 

つまり、そこに関しては、軽く聞き流せばいいと思います。

 

というか、そもそも同じ辞書を共有できていない人からどう形容されて思われようが痛くないと思いませんか。

 

ちょっと痒いとは思いますが。

 

逆に、同じ辞書を共有されている人から指摘される言葉にこそ人は傷つくと思うのです。

 

さて、続きまして、「こみ上げる様々な感情を自分の中に押し戻すほかありません」に関してですが、人に発信する行為には、必ずそういう印象が少なからず抱かれてしまうリスクが存在します。

 

そのリスクを背負ってでも、発信するメリットが上回れば発信すればいいと思いますし、リスクが大きすぎると思えば、確かに自分の中に押し戻すという行為が消去法的に必要かと思われます。

 

ということで、今、その押し戻すしんどさを抱えているのでしょう。

 

じゃあ、人に「メンヘラ」って思われたくないから「自分の中に押し戻す」という方法をココで採ったとしましょう。

 

以下、そういった感情の飼いならし方について書きます。

 

自分の中に押し戻された感情の飼いならし方について

そういったこみ上げる様々な感情の処理は、「諌める脳」VS「暴れる心」といった具合に、誰しもがいつか自分自身と1対1で向き合わなければならないものだと考えています。

 

場合によっては、人に相談するのもアリだと思いますが、究極的な相談相手って、最終的に自分自身ただ一人になるんじゃないかなって個人的に思います。

何歳になるかは人によってさまざまだと思いますが。

 

きっと、こみ上げる様々な感情が溢れ出ているときって、心の中で「交通渋滞」を起こしてて、交通整理する人が不足している状態だと思います。

 

心の渋滞を緩和させるためにSNSや友人に吐き出して、彼らをバイパス代わりに交通緩和させるのも確かに1つの手かと思います。

 

しかし、それって根本的な解決にはなってない気がするのです。例えば、「クサいものには蓋をしめろ」と同じ原理で、蓋をしめて、一時的に紛らわせているだけで、実際のニオイの元は絶っていないように。

 

アメリカの諺に

 

Give a man a fish and you feed him for a day, teach him how to fish and you feed him for a lifetime.

 

中国の老子の言葉に

授人以魚 不如授人以漁

というものがあります。

 

どちらも、魚をあげちゃえば、1日は食べていけるけど、魚の釣り方を教えたらその人は一生食べていけるという意味です。

 

今の事例に当てはめるならば、友人から同情と共感によって支えられて慰められることは、たった1日の気持ちの緩和でしかなく、また同じような壁にぶち当たるたびに、同じ状況に陥るたびに、毎回助けを乞うのでしょうかという話です。

 

さらに問題なのは、こういった言葉の交通渋滞は人生スケールにおいて単発的なものではなく、頻発してしまうという多発的な事象であるがゆえに、悩みに対して、"魚の釣り方"を身につけるのが実は一番手っ取り早い気がするのです。

 

どこにも吐き出す場所がないという時期って、これから先、人生のどこかできっと現れると思います。親も先に死んでしまうでしょうし、周りの友人は結婚し家庭を築き、子供のことで精一杯。

 

今まで通りに友人の愚痴は聞いてられなくて、もしかしたら、いま以上に吐き出し口がない日常って今後の人生で数え切れないくらい無限に存在すると思います。

 

SNSに依存できる時代なので、リアルの友人すらも見ていないアカウント作って、そこに絶えず吐き出していくスタイルも使い方としては有効だと思います。

 

ということで、ここで、自分からの提案ですが、そういう感情が溢れ出たときに、どう考えたらしんどい思いをしなくなったかといった「経験知」と「経験値」を自分の中で累積していくのが将来の自分を助ける近道だと考えています。

 

その自分を助けた言葉、行動を【復活の呪文】としましょうか。

 

そういった「復活の呪文」の体得は人生で求められるスキル上げの1つと言えるのではないでしょうか。

 

おそらく、その人の性格によって、スキルの繰り出し方はさまざまだと思います。

 

具体的には、ポジティブに捉え直すことで解決を図る発想力タイプ。他のことをして気を紛らわせて忘れさせる行動の上書きタイプ。とりあえず寝て忘れて、記憶の忘却の彼方に投げ飛ばすタイプ。悩みを構造化させて、論理を持ち出して俯瞰して解決するタイプ。

 

どうせ人間なので、溢れ出る感情は様々と言えども、ランダムな感情って意外と少ないと思いますし、悩みを細分化すれば、いずれ解決方法は組み合わせでパターン化できる気がするのです。

 

ここで、僕が予備校時代に出会った世界史の先生の授業中に言った今でも覚えている言葉を紹介します。

 

学生時代に経験しなきゃいけないのは、孤独、貧乏、読書だ。大学で友達は2人いればいい。

 

だいぶ思想強めで全同意とは言いかねますが、「諌める脳」VS「暴れる心」、「理性」VS「感性」という葛藤を繰り返す自問自答の行為と過程をここで仮に『孤独』とするならば、学生時代、誰しもが経験して然るべきものは、確かに無限思考の中で感じてしまう『孤独』なのではないかと浪人生活2年間()と学生生活6年間を終えようとしている中で考えたりしています。

 

突き放すようで悪いですが、人生って、学生が抱えるほどの孤独、しんどさ、想像をはるかに超える絶望の連続だと思います。

 

そういった人生のチュートリアルのような学生時代の『孤独』に打ち勝ってこそ、スーパーサイヤ人のような、周りの「メンヘラ」的な揶揄の声をノイズと思えるほど無敵で素敵な自分に出会えると思っています。

 

学生時代なんてまだ冒険すら始まっていないのではないでしょうか。

 

一人で歩いていけるコツなんて、靴紐の結び方ひとつな気がしているのです。

 

以上です。ありがとうございました。shinoDでした。